やさぐれ漫画描き、広枝出海のブログです。 創作同人情報、美術展やら映画感想など 獺祭状態でつらつら書きたいな~、と。 カワウソは取った魚を祭るように陳列するそうですが、散らかしているだけとは言ってはいけないお約束(^_^;) 無断転載はどうぞご遠慮下さいませ<(_ _)>
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映画『神々と男たち』を見ました。
『神々と男たち』(グザヴィエ・ボーヴォワ監督 2010年フランス制作)を見ました。
2010年のカンヌの審査員特別グランプリ受賞作品です。 とはいえ「カンヌ受賞!」のあおりに釣られると泣きを見ることもあるので(li-ω´-)あんまり期待しないよーにしよー…(笑)と思ったら、いやいや!すっごくツボでした。非常に美しい映画です!
1996年、アルジェリアで実際に起きたフランス人修道士にまつわる事件の映画化だそうで。
ですが、いきなりタイトルの「神々」でつまずく私 (・´ω`・)
キリスト教、つまり一神教なのになんで複数なん??と思って確認したら、誤訳ではなく原題ママ(DES HOMMES ET DES DIEX)らしく…。その理由は映画の冒頭でも提示されてたようですが…見てなかった…ていうか、なんかよくわかんなかった…(えーと、教義上の解釈でなんたらかんたらと~)ちゃんと意味があるっぽいので気になる人は各自ご確認を。私のヘリウム入りのオツムでは説明できましぇん(ノω・`o)キリスト教、難ちいよぅ…。
原理主義者にとって、フランス人修道士の存在は宗教的に対立するのみならず、かつての宗主国、今の貧困と混乱の元凶なのだ。いつ襲撃され、殺されても不思議はない。修道士たちのフランス本国の身内は彼らの身を案じ、しきりに帰国を促す。だが、村人たちは帰らないでくれと懇願する。村人にとって彼ら修道士は無くてはならない存在になっていたのだ。隣人を愛せよと言ったキリストの教えに殉じるのか、それとも命を惜しんで帰国するのか。修道士たちは迷い悩む。
そんなある日、クリスマスの夜。つましくキリストの生誕を祝う修道院に、原理主義者の集団が押し入って来て…。
元ネタの事件を知らなかったので、「ああ!早々に押し込んできちゃったよ~。もう流血展開?籠城監禁?」と冒頭からハラハラしちゃったんですが、映画の主題はそこではなかったようで。修道院に押し込んできた男たち(いかにも山賊、強盗風)の「教皇を出せ!教皇はどこだ!」の台詞に(ああ、ほんとに何も分かってないんだ…だめだ撃たれる~)と思いきや、修道院の代表のクリスチャン(ランベール・ウィルソン)が敢然かつ冷静に受け答えし、窮地を切り抜けます。実は彼らは怪我人の治療を求めてきただけ。
怪我人の居場所は遠過ぎて、医者の老修道士はとても同行できないとクリスチャンが説明すると、原理主義者のボスは意外にも理解を示して撤収します。更に、クリスチャンが別れ際「今夜は我々の神の子が生まれたお祝いだったんだ」と言うと、「それは悪かった」と謝罪までします。
テロリストと言っても分別のある人はいるんだな~、と変なところで感心。イスラム教から見てもイエスは預言者ではあるので、まあ当たり前といや当たり前なんですが(^_^;)けれど一触即発の事態だったのは事実。この夜以降、修道士たちは留まるのか帰国するのか、いよいよ決断を迫られます。
一番意外だったのは、修道士たちは必ずしも殉教を是と考えていないということ。
日本人から見るとキリシタン弾圧とか、殉教大絶賛!って感覚かと思ってたんですが(昔の宗教絵画、殉教した聖人の絵なんて必ず死因の拷問器具が添えられるし。あの感覚は相当シュールだと思う…)現代ゆえなのかフランス人ゆえなのか、彼らは生きることを第一に考えます。もうお迎えが近そうなお爺ちゃんさえ同じです。十人前後?の修道院のメンバーはお爺ちゃん率が相当高いんですが、それでも「老い先短い身だから死んで本望」とか言うような人はいません。
「帰りたい」「でも村人を裏切るのってどうよ」「どうしよう」
と三々五々意見の纏まらない修道士たちを前に、リーダーのクリスチャンの苦悩は深まります。何が悩みって、自分たちを慕い引き留めようとする村人はイスラム教徒。カトリックに帰依してはいないのです。はっきりとは描かれてませんが、おそらく修道院は植民地時代からのもののはず。少なくとも半世紀以上は経つのに、誰一人改宗していない。布教が目的のはずならどう見ても失敗です。
こっちから見ると村人の感覚って「タダで治療とかしてくれちゃう便利なお隣さん」にしか見えないわけですが…実際どうだったんだろう… 都合いいな~、って思っちゃったんだけど…(・´ω`・)カトリック信徒が引き留めるならともかく、これではクリスチャンも悩むはずです。
修道院の経営は苦しく、しかも外出も恐る恐るという中、薬も食糧も不足がちに。安全面からも生活面からも進退の決断を迫られるリーダー、クリスチャン。彼は神に祈ります。その祈りは賛美歌となり、静かなアルジェリアの景色に重なります。この折々に挟まれる賛美歌が実に清らかです。これ、ほんものの修道士の歌声?吹き替え?プロ並みの上手さにびっくり。修道院の賛美歌ってこのくらいは普通なんでしょうか。そしてアルジェリアの乾燥した風景。それは修道士たちの母国フランスより、はるかにイエスの見た風景に近いはず。そこをさ迷うように散策する姿は、無言でも苦悩が伝わります。
しかし、神は答えません。
沈黙。
神の沈黙に、修道士たちは悩みながらも決断します。
この沈黙する神への修道士たちの感情が、「これって片思いそのものじゃん!」って感じなんです。
神が振り向かなくてもただ一心に、熱烈に想いを募らせる修道士。イエス・キリストの絵にキスするお爺ちゃん修道士のシーンなんか、ドキドキものでした。信仰の話…のはずなんですが、この恋愛の匂いは何なんだろ (^_^;)意図的な演出なのかな?とも思ったんですが、そういえばこれはフランス映画。はっ、だから!?フランス映画はどんな主題でも、えろーすな感じになっちゃうとか!?ど、どーなんだろー… (*´ω`*;)でもそこが出色だったと思います。宗教や政治がよく分かんなくても感情移入できるのではないでしょうか。
ややネタバレですが、終盤、修道士たちの晩餐でベートーベンの交響曲第七番三楽章(多分;)が流れるシーンは本当に感動ものでした。役者さんたちの何とも言い難い、達観した表情も堪りません。
久しぶりに泣きました…。
全体的に質素で、重苦しい話ではありますが、「いい映画」です。ラストの雪景色は心にせつなく残り続けます。事件の真相は解明されていないことも多いそうなので、ラストは憶測かもしれません。それでも説得力がありました。設定も、話の終わり方もまるで違いますが『バベットの晩餐』を思い出しました。空気感というか、心への残り方が近い気がします。
あー、いい映画見ちゃったなー。
ところで。
この映画を観て上記↑の感想を書いたのは実は割と前で、アップし損ねている内に先日のアルジェリアのガスプラント事件が起きました。救出された方の一人はベッドの下に隠れて助かった、というのを聞いてまず思い出したのがこの映画でした。映画でも修道士の一人はベッドの下に隠れて命拾いしています。この映画と先日の事件とではケースは違いますが、15年以上経ってもいまだアルジェリアの治安状況は変わらないという事実には暗澹とするばかりです。どうすればこの国が、地域が平和になるのか、根本にあるものがあまりに深すぎて軽々には考えられません。それでも「普通」のひとが「普通」に暮らす権利は絶対のはずです。『神々と男たち』の修道士たちも普通のひとです。
ほんとうに、人ってなぜ争うんでしょうね…。
1996年、アルジェリアで実際に起きたフランス人修道士にまつわる事件の映画化だそうで。
ですが、いきなりタイトルの「神々」でつまずく私 (・´ω`・)
キリスト教、つまり一神教なのになんで複数なん??と思って確認したら、誤訳ではなく原題ママ(DES HOMMES ET DES DIEX)らしく…。その理由は映画の冒頭でも提示されてたようですが…見てなかった…ていうか、なんかよくわかんなかった…(えーと、教義上の解釈でなんたらかんたらと~)ちゃんと意味があるっぽいので気になる人は各自ご確認を。私のヘリウム入りのオツムでは説明できましぇん(ノω・`o)キリスト教、難ちいよぅ…。
映画自体は素晴らしく美しいです!ネタ的には社会派ドラマのくくりなのかも知れませんが、これは恋愛映画だ!と思いました。神への、です。
1996年、アルジェリアの片田舎の村にあるカトリック修道院。
原理主義者にとって、フランス人修道士の存在は宗教的に対立するのみならず、かつての宗主国、今の貧困と混乱の元凶なのだ。いつ襲撃され、殺されても不思議はない。修道士たちのフランス本国の身内は彼らの身を案じ、しきりに帰国を促す。だが、村人たちは帰らないでくれと懇願する。村人にとって彼ら修道士は無くてはならない存在になっていたのだ。隣人を愛せよと言ったキリストの教えに殉じるのか、それとも命を惜しんで帰国するのか。修道士たちは迷い悩む。
怪我人の居場所は遠過ぎて、医者の老修道士はとても同行できないとクリスチャンが説明すると、原理主義者のボスは意外にも理解を示して撤収します。更に、クリスチャンが別れ際「今夜は我々の神の子が生まれたお祝いだったんだ」と言うと、「それは悪かった」と謝罪までします。
テロリストと言っても分別のある人はいるんだな~、と変なところで感心。イスラム教から見てもイエスは預言者ではあるので、まあ当たり前といや当たり前なんですが(^_^;)けれど一触即発の事態だったのは事実。この夜以降、修道士たちは留まるのか帰国するのか、いよいよ決断を迫られます。
日本人から見るとキリシタン弾圧とか、殉教大絶賛!って感覚かと思ってたんですが(昔の宗教絵画、殉教した聖人の絵なんて必ず死因の拷問器具が添えられるし。あの感覚は相当シュールだと思う…)現代ゆえなのかフランス人ゆえなのか、彼らは生きることを第一に考えます。もうお迎えが近そうなお爺ちゃんさえ同じです。十人前後?の修道院のメンバーはお爺ちゃん率が相当高いんですが、それでも「老い先短い身だから死んで本望」とか言うような人はいません。
と三々五々意見の纏まらない修道士たちを前に、リーダーのクリスチャンの苦悩は深まります。何が悩みって、自分たちを慕い引き留めようとする村人はイスラム教徒。カトリックに帰依してはいないのです。はっきりとは描かれてませんが、おそらく修道院は植民地時代からのもののはず。少なくとも半世紀以上は経つのに、誰一人改宗していない。布教が目的のはずならどう見ても失敗です。
こっちから見ると村人の感覚って「タダで治療とかしてくれちゃう便利なお隣さん」にしか見えないわけですが…実際どうだったんだろう… 都合いいな~、って思っちゃったんだけど…(・´ω`・)カトリック信徒が引き留めるならともかく、これではクリスチャンも悩むはずです。
この沈黙する神への修道士たちの感情が、「これって片思いそのものじゃん!」って感じなんです。
神が振り向かなくてもただ一心に、熱烈に想いを募らせる修道士。イエス・キリストの絵にキスするお爺ちゃん修道士のシーンなんか、ドキドキものでした。信仰の話…のはずなんですが、この恋愛の匂いは何なんだろ (^_^;)意図的な演出なのかな?とも思ったんですが、そういえばこれはフランス映画。はっ、だから!?フランス映画はどんな主題でも、えろーすな感じになっちゃうとか!?ど、どーなんだろー… (*´ω`*;)でもそこが出色だったと思います。宗教や政治がよく分かんなくても感情移入できるのではないでしょうか。
久しぶりに泣きました…。
あー、いい映画見ちゃったなー。
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